「パントマイムをはじめた理由。」

あるお仕事で知り合った団体の方達から、こんな↑原稿依頼がありました。
おかげで、ちゃんと考えることができました。(^_^;)
作文を久しぶりに書いちゃったみたいで、ちょっとアレンジして、ここにも載せてみました。
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私の職業はパントマイムです。
今年で18年目です。
え〜!?パントマイムで食べれるの?(やっていけるの?)って思われるでしょう。
以前は私もそう思っていました。
もちろん、年収などはぜ〜んぜん低いです。
でも、まあ、なんとかかんとかアルバイトをしないでやっていけるようになりました。
とりあえず現時点では、ですが。
未来は綱渡り人生です。
でもなぜ、パントマイムだったのか?
理由は複数ある気がします。
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私は、はじめからパントマイムを志していたわけではなかったのです。
小さい頃の夢は「俳優」でした。
舞台の役者になって、お芝居をやりたかったのです。
学校の勉強は、得意でも好きでもありませんでした。
なんで毎日、毎日、こんなにバラエティに富んだ科目の勉強をやらなければならないのか?!
1つのことを、もっとゆっくり、もっと深くやれたらいいのに・・・そんな風に感じていたような気がします。
また、周りのみんなといっしょにやっていく、ってこともあまり得意ではなかった。
たったひとつのことを、じっくり、深く・・・。
みんなといっしょではなく、ひとりでゆっくり・・・。
そんなところは、おもえば実にパントマイムの特徴です。
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また三年前に亡くなった母がパントマイムが大好きでした。
母は、パントマイムの世界的な巨匠、フランスのマルセルマルソーの大ファンでした。
小学4年生の私は、母になかば引きずられるように簡易保険ホールへマルソーを観に行きました。
白塗りの初老のフランス人が身振り、手振りでいろいろな滑稽なエピソードを演じるのですが、私には理解できず、すぐに船をこいでしまいました。
途中で目を覚ますと、隣の席で母が前のめりになって、舞台を観ていた姿が心に焼き付いています。
そんな母の影響はやはりあったのだと思います。
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そして私は声帯というものが、ひじょうに弱かった。
高校を卒業後、俳優を志していた私は桐朋学園の演劇科に進みました。
そして卒業後、小さな劇団に入ります。
くり返し公演があるのですが、本番ではほとんど必ず声を嗄らし、音を無くしてしまうのです。
声を無くした役者って、ほんとうにみじめなものです。
鳴らないトランペット、サッカー選手が走れないようなかんじです。
学生の頃、本番前にまったく声が出なくなり、演出家の温情でその役を身振りで演じることになったのです。
それは安部公房の作品で、役柄もユニークだったものですからこの非常対策がけっこうウケた。
言葉がしゃべれない分、必死で伝えようとするその動きは滑稽で、そして、少しだけ哀愁のようなものが出て、安部公房の世界とピッタリだったわけです。
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滑稽と哀愁。
どちらもパントマイムそのものだと思います。
そして、人生もまったくそうですね。
一度はOLも経験したのですが、やっぱりもどってしまった。
いつまでもふざけた真似をやめない子どものようです。
天命がいつまであるかわかりませんが、できるだけ長くパントマイムで滑稽と哀愁が表現できたら、こんな幸せはありません。
目標というものではないですが、
これからはたくさんの人々に、ではなく、ひとりの人の心に深く伝えられたらそのほうがいいな、と思うようになりました。
長々と駄文におつきあい頂き恐縮です。

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